★エゴマの語源と由来 荏胡麻の「ゴマ」は、種子がゴマの実に似ているところから。荏胡麻の「荏」は、油をとるところから「え(得)」、味が良い 意味で「え(良)」の説があ り、前者が有力とされている。 しかし、エゴマの油が料理に用いられる際は、「アメゴマ」や「ウマゴマ」とも呼ばれ、「アメ」「ウマ」は「うまい」の意味なので、味が良い意味の「良」の 説が妥当であろう。漢字の「荏(ジン・ニン)」は、種を柔らかく包み込んだ植物の意味で、和語である「エゴマ」の語源とは関 係ない。 エゴマの油は、「エゴマ油」「荏油(じんゆ)」「荏の油(えのあぶら・えのゆ)」と呼ぶ。 ★エゴマの歴史 エゴマの原産地はインド高地やネパール、中国雲南省の高地とされており、紀元前1万年以上も前には、既に東南アジアに広く分 布していたと推定されていま す。大陸からいろんなものが伝わってきたように、エゴマも中国から韓国を経由するか、あるいは直接中国から日本に入ったとい われています。おそらく渡来人 がこの種を持って、丸木舟などに乗って日本海を渡ってきたのでしょう。 縄文遺跡(福井県三方町の鳥浜遺跡、長野県諏訪市の荒神山遺跡など)ではエゴマの種実や根茎が数多く見つかっており、1万 年〜5500年前の縄文時代には、既に栽培されていた痕跡が国内で何か所か見られます。ですからエゴマは日本最古の油脂植物 といえそうです。 エゴマは非常に生命力が強く、山間地や痩せた土地でも良く育ち、乾燥や湿気にも左右されにくい植物で、ある程度の気温があれば育てやすい植物であるため、 当時の縄文人は、古代的な焼畑農法やあるいは住まいの傍らで栽培をしていたと思われます。 鳥浜遺跡では、土器などに焦げた痕跡があり、すでにエゴマを油として利用する方法が発見されていたと思われます。当時は搾 油技術はなかったでしょうか ら、おそらく粒を叩いて砕き、粒ごと利用していたのでしょう。また、麻と一緒にエゴマの種が見られることから、乾燥した麻の 繊維を芯材にして火を灯してい たのではと想像され、縄文人の知恵や工夫が感じられます。エゴマと出会ったことで、灯りや強い火力の利用が可能になり、大幅 な生活の進歩があったと思われ ます。 日本におけるエゴマの伝来は、地域的には東日本が中心で、北陸の沿岸部に流れ着いた渡来人が、徐々に内陸部や太平洋側に移 り住んでいったようです。今で もエゴマの栽培が多い場所(福島県や山形県、宮城県など)が当時(縄文時代から奈良・平安時代)も栽培の中心地であったと思 われます。 ★暮らしを支えたエゴマ油 平安時代初期に、山城国(京都)の大山崎神宮宮司が、エゴマから油を絞ったと記された文書があるように、この時代から本格的にエゴマから油を絞るように なったといわれます。戦国時代に美濃の斎藤道三が油売りで財をなして一国の城主になったことは有名ですが、この油はエゴマの 油だったといいます。鎌倉時代 から江戸時代には、エゴマ油の需要が一気に増加しており、日本全国に広がってきたのもこのころでしょう。 また、エゴマ油は灯明や護摩供養などに使われていたので、日本に伝来した仏教が、平安時代から全国にその信仰が広まったことと関連して、エゴマの油の需要 が全国に広まったともいえます。 真言宗や天台宗の古刹の周りには、エゴマの油をお供えするために、付近の民がエゴマ栽培を行なっていた形跡が多く残っており、また中国や韓国には見られな い油の利用方法(傘や雨合羽などの防水塗布剤、さらに建築家具の塗装、また現代にも続いている伝統食に見られるような料理方 法)が、この時代に始まってい ます。 ★忘れ去られたエゴマ、現代によみがえる しかし江戸時代後期になると、エゴマに比べて生産効率が高い菜種油が日本に入ってきており、次第にエゴマから菜種に移り変 わったことで、エゴマの栽培農家は急激に減少してしまいました。 そのエゴマが、実は素晴らしい成分(α-リノレン酸)を含有していることが、三十数年前に発見されたわけで、健康食品として、また機能性食品として、ここ にきて一躍世に躍り出てきました。長い間、日本人の生活の中に溶け込み親しまれ続けてきたものが、その生産効率だけで隅に押 しやられてきました。近代社会 が「便利なもの」ばかり、あるいは「目先の優位性」ばかりを重んじて、昔からの貴重な財産を失ってきていることに気づかせて くれるエゴマ。現在、東日本を 中心に各地で「エゴマの会」が結成され、エゴマの栽培と利用を復活させようという動きが広がりつつあります。
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