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景勝は、弘治元年(1555)坂戸城主長尾政景の嫡子として生まれた。母は、仙洞(桃)院(上杉謙信の姉)。永禄七年、父政景の急死により10歳で城主となり、以来頑強な上田衆を率いて叔父謙信の関東征戦に従い数々の戦歴を重ねる。
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この環境のなかに、二人が将来名将となるべき基礎を培った少年期がある。 二人は片時も離れず、武士の子として、剣を学び槍を構えて武芸の鍛錬に励み、学問は、とくに高い関心をもって学んだ。師は「通天存達」。存達は、景勝の父政景の兄で学問の道にすすみ、雲洞庵十世北高全祝の推挙で我が国初の大学足利学校に学んだ秀才で、のち、雲洞庵十三世となった人物・存達師の薫陶は、二人の成長に強く影響した。 半農半士の時代、兼続は父に従い、農事全般について体験した。荒地を拓く苦しみも、稔りのよろこびも農民とともに味わった。この実践のなかに豊かな国づくりの理想像が大きく芽生えてゆく。 |
兼続は、永禄3年(1560)長尾政景の臣、樋口兼豊の長男として生れた。幼名与六。幼くして景勝の近習となる。長身にして眉目秀麗、度量、才気、言行ともに優れ越後男児の天質を備えていた。21歳で上杉家の執政に任ぜられる。
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以来、景勝はつねに謙信の側にあって政治軍事全般にわたる厳しい薫陶の日々をおくる。 大胆寡黙、謙信から信頼され前途を嘱望された。 天正6年、謙信の突然の死によって越後に最大の悲劇が襲った。謙信のもう一人の養子上杉三郎景虎と越後国主の座をかけて激しく対立(お舘の乱)、戦火は越後全土に及んだ。翌7年、景勝擁立の中心となった上田衆らの活躍によって勝ち抜いた景勝は、名実ともに名門上杉家を継ぎ、激動の時代へ大きく歩をすすめた。 |
謙信は朝廷を限りなく尊敬し、幕府からも高い信頼をうけていた。 真言密教の戒律を受け、不犯を貫き、厳しい修法で陶冶し、義を尊び、弱者をたすけ、侵略する戦いは一度もなかった。学問を好み、戦場に在っても悠々詩歌を朗吟し、琴曲をかなでる余裕を失わなかった。非情な戦国にあって、純情潔白、清僧の如き英傑の姿に強い感動をうけたのである。 兼続が師と仰いだ謙信の死後に起こった「お舘の乱」で景勝擁立の中心となって作戦の建作指揮に当たり景勝の勝利に大きく貢献した。 この乱の論功行賞をまぐる論争に巻き込まれて死んだ重心直江信綱の未亡人お船に、景勝は兼続を配して名門直江家を継がせ、さらにこれまでの上杉家家老制度を廃して兼続を執政(政務一切の統括者)に抜擢し全権を委ね、謙信亡き後の内外の重圧に立ち向かった。 |
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信長の死後、秀吉は上杉景勝に提携を申し入れた。戦乱に明けくれた民の苦しみを救い、平和国家建設が急務との両者の大義一致によって同意し、以後景勝は天下の政治に参画貢献、ゆるぎない地位を確立した。 秀吉晩年の朝鮮出兵は、いたずらに異国の地を踏み荒らす大義なき侵略で、大名たちの厖大な犠牲は民の疲弊となり、重大な局面をむかえた。 政局不穏のなか、秀吉は百二十万石の大禄(歴代三位)を景勝に与え、会津への国替えを命じた。景勝はこのうち三十万石を兼続に与え、一段と混迷する難局に立ち向かった。また、道路、橋、築城など百二十万石に相応しい国造りを兼続に命じ、会津全土に希望の槌音が響く。しかし、このことが周辺大名の脅威となり、上杉軍備、上杉謀反の訴となって家康に告げられた。 機あらば上杉討伐をと目論む家康は、兼続に厳しく糾弾してきた。返書は兼続が正々堂々、箇条で家康の陰謀をあばき正義を貫く上杉の気骨をしめし「いつなりとうけて立つ」と、家康の心胆を寒からしめた世にいう「直江状」を送り、来攻を待った。景勝兼続主従が歴史の舞台に颯爽と踊り出た一瞬である。 上杉討伐の大軍が小山に着いたとき、西で石田三成が家康打倒の兵を挙げた。決戦に満を持す上杉軍を前に家康は突如反転して西に向かった。 上杉軍は、再び来攻するであろう家康に備え、会津背後の最上義光を攻め、またたく間に席捲、しかし、関ヶ原で三成軍が破れ、兼続もまた最上から兵を引いた。 上杉軍は、家康と鉾を交わすことなく敗者の側に立った。敗者となった上杉家は存亡の危機、最大の難局に立たされた。 名門上杉家存続をかけた兼続渾身の外交戦略によってからくも上杉家は米沢三十万石への減封で命脈を保った。 予想をこえる難局を一人背負った兼続の国造りの戦いが始まった。 いかなる事態をも想定し、一人の武士も解雇せず、自らの俸給を武士たちに分け与え、上下一体の思想を創りあげ、そのうえで、農業生涯に欠かせぬ農民指導、新たな産業の振興、治山治水など兼続の総合的能力がよどみなく発揮された。 次代を担う青少年の学問奨励にも力を注いだ。兼続は少年時代から学問に強い関心をもち、在京時代、中国、朝鮮からも貴重な文献を収集、一流の高僧たちとの交流を深めて講義を開き修養を高めた一流の文化人であった。 晩年兼続は、収集資料のすべてを投じ、東北における初の学校「禅林文庫」の創設を急ぐが、開校の前年、元和五年(一六一九)六十歳で生涯を終えた。 主家上杉家盛衰の全責を負い、死をもって直江家の絶家を遺言している。
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